Vtuberはいいなぁ!にじさんじ追っかけてると日が暮れる
引き続きVtuberを追っかけています。
大体にじさんじの箱推しに近い状態になっていましたが、ここ二カ月くらいでそれ以外の団体(?)などにも目を向けて幅が広がってきた気がします。
そんなことしてると更に時間が無くなってやばいのでまじでほどほどにしないといけないのですが。
さて最近になってようやく収益化が通った方で「竜胆尊」さまがいらっしゃいます。
にじさんじの鬼の女王さまです。
小柄ながらも妖艶な魅力をお持ちで、大の酒好きというなんとも素晴らしい属性の持ち主です。
お声もいいんですよねぇ~。
やっぱり声がいいって強いですわ。
それはそれとして、わたしも昨年後半に知ってからずっと追いかけていたのですがなかなか収益化が通らないようで結構気になっていました。
ここ数日で出てきたニュースとして、youtubeの規約改定?か何かがあって飲酒を勧めるようなコンテンツに規制がかかるようになるらしいというのが話題になっていました。
過度な飲酒をしたり、それを勧めたりするようなマネはやめろということなのでしょう。
問題はどの程度から規制の対象となるのかという点です。
尊さまはその配信のほとんどで飲まれていらっしゃったので(にじさんじ内で初回配信から飲んだのは尊さまだけかと)大丈夫かなぁ~などと心配していたのですが、この度無事に収益化が通ったようで安心しました。
ご本人は収益化自体はそんなに気にしていないとおっしゃっておられましたが、こちらとしては是非受け取れるものは受け取っていただきたかったですし、最悪の場合やめてしまわれるのではという思いも少なからずありました。
やっぱり推している人には潤ってもらいたいですからね。
今後も応援していきます!
あ、あとデビちゃんも収益化おめでとう!
プロレス的なものだけど暴言満載だったり、う〇こネタもアリできわどすぎてもしかして無理なんじゃないかと思ってたけど通ってびっくりしました!
いやぁおめでとうございます!
これでびちゃんのチャンネルめっちゃ精査されて時間かかったのかな。
広告主的にNGな部分が多いと素直に収益も上がりづらいかもしれませんが、ファンがついてるのでスパチャが飛んでくるし大丈夫でしょう。
あとデビちゃんが通ったんなら自分のところもいけるんじゃないかと思ったVtuberさんも結構いるのでは?
にしても、にじさんじって今どんくらい儲かってるんですかね?
ここまでくるとソコも気になってきちゃいますね・・・。
あけましておめでとうございます。(1月末)
あけましておめでとうございます!
年賀状を書かない勢ながらごく少数の知人へはラインにて新年のご挨拶を行っておりました。
人付き合いは自分がラクに続けられる範囲にしておこうと思っているのでこれからも多分私はこんな感じで正月を重ねていくんじゃないかなぁと思っています。
さて、今年は平成から新しい元号に変わります。
元システム屋としては忙しい時期が近づいてきて大変だろうなというのと、仕事ができていいねっていう思いといろいろあります。
震災後にどんどん開発やら維持管理やらの仕事が減っていくなかで辞めた人なので、仕事があるっていう状態を生み出す世の中の変化っていうのはありがたいことなんだという考えを持っていたりします。
(まぁ私の場合は単純に向いてなかったというのが理由のほとんどでしたがw)
さて、昨年末から本年始は以前までと違った過ごし方をすることができました。
というのもVtuberにはまっていまして、年末ネット上のイベント視聴で3窓くらいしつつ、テレビでガキの使いを見つつ、スマホでもユーチューブを見つつというかなり忙しい年越しだったんです。
多分年越しの瞬間としてはここ数年で一番忙しくしてましたね。趣味なのでよいのですが。
Vtuberがバズったのは2017年末~2018年初頭あたりが起点だったと思いますが、その後ぼちぼちと「にじさんじ」を見るようになり、最近はついににじさんじも60名前後の大所帯となってしまいました。
もともとは「にじさんじ」という配信アプリのプロモーションを兼ねた配信だったのがあれよあれよと膨れ上がってようやく一年を迎えようとしています。
(それなのに肝心の配信アプリの方が未配信というのもまた変な感じがしますがw)
個人的に推しているドーラ様↓
一年未満でのこの変化、勢いというものを感じる度に、「昨年のこの時期の自分からどれだけ成長できたのだろうか」なんて考えてしまいます。
情報社会の変化の早さがわかりやすく実感させられるような時代になってしまいました。
来年のこの時期、笑っていられるような過ごし方をしていこうと思います。
ちょっとした考え【やりたいこと以外で稼ぐという考えが甘い】
またまた完全私事の日記です。
【やりたいこと以外で稼ぐという方が甘い】という話です。
その後の成長にも差が付く一方だから避けるべきだという考えに基づいています。
我慢してもやるべきという考え方は、決まりきった定型業務で給与をもらっている人が多かった時代にはある程度通用していたと思います。
ですが今は能力、センスの部分が問われる時代になっています。
その部分が飛びぬけてこないと、給与が上がらないですし、今後はどんどん上がりにくくなっていきます。
つまり、能力を伸ばしていくことは必須だということです。
そんなことは昔から変わりない、という風に思われるかもしれませんが、大事なのは成長のスピードです。
我慢して嫌々やっている人では、才能があったりその仕事に興味を持って取り組んでいる人の成長スピードには叶いません。
更に、やる気がある方であれば前々からその仕事に就いてからのことも考えてしっかり準備(勉強など)をしてきている場合がほとんどなので、スタートから差が付いています。
そんな状態からこの先数十年を同じ土俵で勝負していくなんて、どう考えても負けに行っているとしか言えないでしょう。
人生をかけて決して勝つことができない土俵に立つようなマネはするべきではないという点には同意していただけると思います。
やりたくないことをやらないといけないことの始まり
努力や我慢、頑張るなどという言葉は美徳として語られることが多いですよね。
何故そうなってしまうのか、という疑問の答えとしては、「そういう教育を受けたから」というのが当てはまるかと思います。
以下、かなりざっくりとした例を挙げますが、よくある条件なのでこれを使って説明させていただきます。
日本ではほぼ100%の子供が学校教育を受けます。中学卒業までは義務教育となっていますが、中学校からは定期テストで順位付けられます。
順位付けが悪いという話ではありません。
問題はそこでの「成功体験」、もしくは「失敗体験」の条件付けです。
全国的に探せば「勉強が好き」という子も居るでしょうが、かなり少数なのが現状でしょう。
まして、同じ学校内ともなるとまず居ないと思います。(こういう書き方は失礼にあたるかもしれませんが、現実的な例として一先ず聞いてください)
そういった中で成果を出す、つまり順位を上げるとなると、「嫌な」ことを「我慢」して「頑張」る必要に迫られますよね。
そうやって勉強に取り組むわけです。
そうして順位が上がった場合、つまり「成果が出た」場合、【嫌なことを我慢して頑張ったおかげだ】という風に記憶されることが多いでしょう。
これが成功体験です。
逆に勉強しないで順位が下がった場合、それは【勉強という嫌なことを我慢するのを避け、頑張らなかった結果だ】と受け入れるわけです。
これが失敗体験です。
(失敗体験にはもう一つ、勉強したけど順位が下がってしまうパターンがあります。
これは強い無力感を覚える手ひどい体験となりますが、実はある種の成功体験にもなり得ます。
ただこのパターンについては本記事の主旨である「やりたいこと以外で稼ぐという考えが甘い」という件から少し外れた「無力感からくる失望」の面に入ってくるのでまた別途記載します。)
つまり、成果を出すには「嫌なことでも我慢して頑張る」ことが必須であるという思い込みが出来てしまいがちだということです。
思い込みなどではなく、それが現実じゃないかと思われる方は多いかもしれません。
ですが上述しましたように、そんなやり方をしたところで到底報われないのが社会に出てからの現実です。
学生時代であれば順位づけの競争相手は基本的に同学年、もしくは1~3歳差の人達でしょう。
能力的にもそこまでかけ離れた人が居る場合は少ないと思います。
ところが社会人(ここでは職業を得て働く人という意味でとらえてください)になればその道数十年のベテランまでも競争相手としなくてはならなくなります。
スタート時点で大きくかけ離れた能力を持つ人が居るわけです。
更に、全国、全世界の人と渡り合うともなれば才能で叶わないような人も必ずいると言っていいでしょう。
そんな人達と勝負していかなくてはいけないという状況にあって、「嫌」なことを「我慢」してやっている人が勝てるようになるでしょうか?
才能の差があるならば成長の速度で追いつかなければいけませんが、嫌々やっている人の能力向上にスピードを期待するのは無理があります。
つまり、才能や経験の差を詰めるための成長を促すには、その仕事に対しての興味関心が高いこと(一般的に言われる「やる気がある」という状態)が必須だと考えます。
上述したテストの例で言えば、ほぼ居ないと思われる「勉強が好きで、我慢ではなく望んで取り組んで順位を上げた」というパターンの人です。
現在の順位はどうであれ、いずれは高い能力を得るでしょう。
このような人と同じ土俵で、定年を迎えるまで戦い続ける覚悟ができるでしょうか?
私はご免です。
ですが、世の中的にはそういった戦いをすすめてくるわけです。
不思議だとは思いませんか?
その理由は上述のテストの例で言う「成功体験」と「失敗体験」にあります。
どうして「やりたくないこと」をやらなければならないと考えてしまうのか
勉強と仕事に対して通じる部分として、できれば「やりたくない」ことである点があります。
これはテストの例と同じように「仕事がやりたいことであるという人はごく少数である」という前提の話です。
ざっくりと言えば、仕事とテスト(テスト勉強)には「やりたくないけどやらなければならないこと」という共通点があるわけです。
テストで頑張って順位が上がった経験(成功体験)を持つ人であれば、そのまま仕事もやりたくないけど我慢して頑張ろうとするでしょう。
逆にテストで頑張れなかった(あまり勉強しなかった)という人(失敗体験をもつ人)も、「あの時頑張らなくてうまくいかなかったんだから、今度は頑張ろう」という意識付けをされる方が多いと思います。
どちらにしても、「やりたくないこと」である以上、「頑張らないといけない」という認識が働いてしまうわけです。
こうなると大多数の人が「やりたくないことをやらないと稼げない」という認識を日々自分に刷り込んでいってしまいます。
これが、世の中の「やりたくないこともやらないと稼げない」という大人の認識を形作っていくことになります。
やりたくないことをやらなければ稼げないということへの反論
稼ぐためにはやりたくないこともやらないといけない、という強迫観念が作られる過程についてつらつらと書いてきました。
ここでは強い反論として、直接的に「やりたくないことをやっていては稼げない」ことの論拠をそのままぶつけようと思います。
それは、「能力が伸びないから」です。
これから先、能力が問われる時代になるのは分かりきっています。
そして、嫌々やっている人は能力の伸びが期待できません。
もうこの時点で、やりたくないことをやっていては稼げなくなるのが目に見えています。
学生時代のテストであれば、まわりも嫌々やっている人ばかりといった感じだったでしょうから、我慢してやればそれなりに結果が出ていたでしょう。
ですが仕事となればいろいろな人が競争相手になります。
経験や才能に差がある相手に対して差を詰めるためには、やりたいことで成長の度合を高めていくしかありません。
経験も才能も無く、やる気もない(やりたくない)という人がどうやって能力が評価される人材になっていけばいいのでしょうか?
私にはその方法が思いつきません。
やりたいことをやって、どんどん成長しよう
これから先、AIの進歩も相まって人の手がかかっていた仕事がどんどん機械化していきます。
ここ20年ほどずっと言われていた単純労働者の激減が現実味を帯びてきています。
この先稼いでいくためには、機械で替えが効かない価値を生み出していかなければなりません。
こういう話になると、未来を不安に思う人が多いようです。
しかし、悲観することはありません。
今まで人が「やらなければならなかった」仕事を、機械に任せることができるようになってきたわけです。
手が空いた分、好きなことをしましょう。
もし、「機械にできない価値を出す」ことに不安を覚えているのであれば、それこそ好きなことをするべきです。
機械的にやれることは全て機械でやれてしまいます。
人にしかできないこと、それを極めていこうとするモチベーションはその人が好きなことをやらなければ生まれてきません。
クリエイティブなことというのは本来だれにでもできることです。
今まで定型的にやるべきことをやるということに集中してきたせいで難しく感じているだけです。
自分の中の創造性を蘇らせるためにも、自分のすきなこと、すきなものを大切にして育てていきましょう。
最近のごたごたについて
前回の日記の続きのようなものです。
当事者となってしまった方のお知り合い(と書いておきます)の方がツイッターなどでこの件について触れて発信されています。
お知り合いの方は著書などを当事者さんによってYoutubeなどで紹介され、一緒に公演されたりなど利益的なつながりがまったくないとはいえない間柄です。
これについては周知の事実であり、それによってお知り合いの方の擁護する発信内容が全て利益に基づいたことのように邪推する反応がよくみられます。
実際に利益が絡んでいる間柄になってしまうと、こういったときにまっとうに擁護することも難しいという現実をまざまざと見せつけられています。
完璧な第三者でないと世間は認めない、というわけです。
特に、最初にセンセーショナルに「加害者」として報じられてしまったため、悪印象が植え付けられてしまっていることからより始末が悪いです。
一体だれが、被告のことを守ってくれるのでしょうか?
本当に、今回の件はまざまざと「見せつけてくれます」。
こういったことを踏まえて今後どういう世の中になっていくのか、自分はどうなっていってほしいと思っているかをよく考える必要があると感じています。
最近のごたごたについて
全く私事の日記です。
最近、以前からチェックしていた自己啓発系のコンテンツを発信されていた方の身辺でトラブルが発生しています。
身辺といっても発信されていた方が当事者ですが。。。。
一緒に活動していた方が突然姿を消して、その後裁判を起こされるというのは普通に考えてかなりショッキングなことであり、ご本人の心中は察して余りあります。
ですが、内容はかなり内部的な事情のようです。
私が追いかけていた発信については、内容はかなり質が高いものでした。
発信者さんも内容についてはかなり考えて行っていたと思われますので、その点については真摯な方であると思っています。
だからといって、表に出てこないような身内への態度が全て素晴らしいものだったという証左にはなりません。
なにせそこは外部からはあずかり知ることができない部分だからです。
今回の件については、裁判沙汰になってしまっていることからも落着するまでに数年単位でかかるだろうことが見えてきてしまっています。
以前から知っていた者の一人として非常に残念な気持ちはありますが、原告被告双方で思いの食い違いがあることは明らかなので、しっかりぶつかるところはぶつけあってほしいと思っています。
また、この件の報道はやはりセンセーショナルに行われており、世間受けしそうなコンテンツをどんどんアピールするやり方は公平性に欠けています。
やはりマスコミというのは数字をとってなんぼなのでしょう。
公平性が二の次なことに改めて気づかせてくれました。
ふと忘れてしまいがちですが、報道は、特に大手マスメディアほどスポンサーに逆らえない存在です。
そしてスポンサーは大衆の目を気にします。つまり、大衆にウケる方向に単純に舵を切るのが大手マスメディアだということです。
裁判は真実を暴くというよりは双方の利益のぶつかり合いであり、裁判官への説得合戦です。
それが司法の現実です。
とはいえ、マスコミがやんややんやとやるだけでいろいろなものが傾いてしまうのはさすがに国民として情けない気持ちがします。
もういっそ清々しいほどに数字に向かって突き進む姿勢を示していただいて、逆に国民が冷静になってくれたらいいなぁなんてばかばかしいことを考えつつ、裁判の行方に注目しています。
八月の暑さ
暑いですね。
全国で猛暑が続いています。
去年のこの時期、東北は晴れ間無しに雨続きだったと思いますが、一年でこれだけ違う気候になるものなんでしょうか。
まぁ実際そういう天候なわけですが・・・。
数十年に一度の豪雨災害だったり、極端な天候続きだったり、この異常気象で温暖化が更に叫ばれるんでしょうね。
地球は長~い目で見て気温が上下しています。
確かに近代では変動の具合が気温上昇かつ急激に進んでいますが、どこまでが一時的な変化なのかの線引きが無いと、地球の温度が「不可逆的に上がっている」のと「一時的に上昇している(この先下がる)」の区別がつきません。
その場合は不可逆的に上昇している場合に取るべき長期的対策と、一時的上昇に対応する短期的対策が不適に用いられることになりかねないというリスクが出てきます。
大抵のものごとでは、場当たり的対応と長期目線での対応の差は今後の結果に大きく影響します。
ではこの温暖化問題に関して、短期的な対策を取れとか言ってすぐ気温が下がるでしょうか?
そんなことは無いと思います。
私たちができることといったら暑い中をどう過ごすかといった部分だけ。
それが短期的対策となってきます。
そして私に限って言えば、今は部屋の冷房を扇風機一台に頼るしかないのです・・・。
・・・暑い中で汗と一緒にダラダラ書いたので特にオチはありません。
この暑さだと目前の涼をしっかりとることに注力しましょう。
忙しい5月を終えて・・・
田植え、運動会、小旅行というイベント続きだった5月を終えてようやく一息ついたなぁと思っている今日この頃です。
6月は特に祝日も無く、かつじめじめした天気が続くので割と陰鬱なイメージがありますが、ジューンブライドと言われる時期でもありますよね。
ちょっと気になって調べてみたら・・・・
日本は梅雨でも海外では乾季で、式を挙げるにはいい気候なんですね。
由来というか、歴史的な意味合いはあるんだろうなと思ってはいたんですが、どうにも6月=梅雨のイメージが固定されていて海外の気候の違いという発想が出来ませんでした。
去年は雨が続いて一か月晴れ間無し、更には結局梅雨明け宣言も無く稲刈り直前まで雨が降るというひどい天気でした。
田んぼがぬかるんでコンバインがささるのなんの・・・・。
今年は、ただ晴れていただきたいと、切に思う次第です。