ちょっとした考え【やりたいこと以外で稼ぐという考えが甘い】
またまた完全私事の日記です。
【やりたいこと以外で稼ぐという方が甘い】という話です。
その後の成長にも差が付く一方だから避けるべきだという考えに基づいています。
我慢してもやるべきという考え方は、決まりきった定型業務で給与をもらっている人が多かった時代にはある程度通用していたと思います。
ですが今は能力、センスの部分が問われる時代になっています。
その部分が飛びぬけてこないと、給与が上がらないですし、今後はどんどん上がりにくくなっていきます。
つまり、能力を伸ばしていくことは必須だということです。
そんなことは昔から変わりない、という風に思われるかもしれませんが、大事なのは成長のスピードです。
我慢して嫌々やっている人では、才能があったりその仕事に興味を持って取り組んでいる人の成長スピードには叶いません。
更に、やる気がある方であれば前々からその仕事に就いてからのことも考えてしっかり準備(勉強など)をしてきている場合がほとんどなので、スタートから差が付いています。
そんな状態からこの先数十年を同じ土俵で勝負していくなんて、どう考えても負けに行っているとしか言えないでしょう。
人生をかけて決して勝つことができない土俵に立つようなマネはするべきではないという点には同意していただけると思います。
やりたくないことをやらないといけないことの始まり
努力や我慢、頑張るなどという言葉は美徳として語られることが多いですよね。
何故そうなってしまうのか、という疑問の答えとしては、「そういう教育を受けたから」というのが当てはまるかと思います。
以下、かなりざっくりとした例を挙げますが、よくある条件なのでこれを使って説明させていただきます。
日本ではほぼ100%の子供が学校教育を受けます。中学卒業までは義務教育となっていますが、中学校からは定期テストで順位付けられます。
順位付けが悪いという話ではありません。
問題はそこでの「成功体験」、もしくは「失敗体験」の条件付けです。
全国的に探せば「勉強が好き」という子も居るでしょうが、かなり少数なのが現状でしょう。
まして、同じ学校内ともなるとまず居ないと思います。(こういう書き方は失礼にあたるかもしれませんが、現実的な例として一先ず聞いてください)
そういった中で成果を出す、つまり順位を上げるとなると、「嫌な」ことを「我慢」して「頑張」る必要に迫られますよね。
そうやって勉強に取り組むわけです。
そうして順位が上がった場合、つまり「成果が出た」場合、【嫌なことを我慢して頑張ったおかげだ】という風に記憶されることが多いでしょう。
これが成功体験です。
逆に勉強しないで順位が下がった場合、それは【勉強という嫌なことを我慢するのを避け、頑張らなかった結果だ】と受け入れるわけです。
これが失敗体験です。
(失敗体験にはもう一つ、勉強したけど順位が下がってしまうパターンがあります。
これは強い無力感を覚える手ひどい体験となりますが、実はある種の成功体験にもなり得ます。
ただこのパターンについては本記事の主旨である「やりたいこと以外で稼ぐという考えが甘い」という件から少し外れた「無力感からくる失望」の面に入ってくるのでまた別途記載します。)
つまり、成果を出すには「嫌なことでも我慢して頑張る」ことが必須であるという思い込みが出来てしまいがちだということです。
思い込みなどではなく、それが現実じゃないかと思われる方は多いかもしれません。
ですが上述しましたように、そんなやり方をしたところで到底報われないのが社会に出てからの現実です。
学生時代であれば順位づけの競争相手は基本的に同学年、もしくは1~3歳差の人達でしょう。
能力的にもそこまでかけ離れた人が居る場合は少ないと思います。
ところが社会人(ここでは職業を得て働く人という意味でとらえてください)になればその道数十年のベテランまでも競争相手としなくてはならなくなります。
スタート時点で大きくかけ離れた能力を持つ人が居るわけです。
更に、全国、全世界の人と渡り合うともなれば才能で叶わないような人も必ずいると言っていいでしょう。
そんな人達と勝負していかなくてはいけないという状況にあって、「嫌」なことを「我慢」してやっている人が勝てるようになるでしょうか?
才能の差があるならば成長の速度で追いつかなければいけませんが、嫌々やっている人の能力向上にスピードを期待するのは無理があります。
つまり、才能や経験の差を詰めるための成長を促すには、その仕事に対しての興味関心が高いこと(一般的に言われる「やる気がある」という状態)が必須だと考えます。
上述したテストの例で言えば、ほぼ居ないと思われる「勉強が好きで、我慢ではなく望んで取り組んで順位を上げた」というパターンの人です。
現在の順位はどうであれ、いずれは高い能力を得るでしょう。
このような人と同じ土俵で、定年を迎えるまで戦い続ける覚悟ができるでしょうか?
私はご免です。
ですが、世の中的にはそういった戦いをすすめてくるわけです。
不思議だとは思いませんか?
その理由は上述のテストの例で言う「成功体験」と「失敗体験」にあります。
どうして「やりたくないこと」をやらなければならないと考えてしまうのか
勉強と仕事に対して通じる部分として、できれば「やりたくない」ことである点があります。
これはテストの例と同じように「仕事がやりたいことであるという人はごく少数である」という前提の話です。
ざっくりと言えば、仕事とテスト(テスト勉強)には「やりたくないけどやらなければならないこと」という共通点があるわけです。
テストで頑張って順位が上がった経験(成功体験)を持つ人であれば、そのまま仕事もやりたくないけど我慢して頑張ろうとするでしょう。
逆にテストで頑張れなかった(あまり勉強しなかった)という人(失敗体験をもつ人)も、「あの時頑張らなくてうまくいかなかったんだから、今度は頑張ろう」という意識付けをされる方が多いと思います。
どちらにしても、「やりたくないこと」である以上、「頑張らないといけない」という認識が働いてしまうわけです。
こうなると大多数の人が「やりたくないことをやらないと稼げない」という認識を日々自分に刷り込んでいってしまいます。
これが、世の中の「やりたくないこともやらないと稼げない」という大人の認識を形作っていくことになります。
やりたくないことをやらなければ稼げないということへの反論
稼ぐためにはやりたくないこともやらないといけない、という強迫観念が作られる過程についてつらつらと書いてきました。
ここでは強い反論として、直接的に「やりたくないことをやっていては稼げない」ことの論拠をそのままぶつけようと思います。
それは、「能力が伸びないから」です。
これから先、能力が問われる時代になるのは分かりきっています。
そして、嫌々やっている人は能力の伸びが期待できません。
もうこの時点で、やりたくないことをやっていては稼げなくなるのが目に見えています。
学生時代のテストであれば、まわりも嫌々やっている人ばかりといった感じだったでしょうから、我慢してやればそれなりに結果が出ていたでしょう。
ですが仕事となればいろいろな人が競争相手になります。
経験や才能に差がある相手に対して差を詰めるためには、やりたいことで成長の度合を高めていくしかありません。
経験も才能も無く、やる気もない(やりたくない)という人がどうやって能力が評価される人材になっていけばいいのでしょうか?
私にはその方法が思いつきません。
やりたいことをやって、どんどん成長しよう
これから先、AIの進歩も相まって人の手がかかっていた仕事がどんどん機械化していきます。
ここ20年ほどずっと言われていた単純労働者の激減が現実味を帯びてきています。
この先稼いでいくためには、機械で替えが効かない価値を生み出していかなければなりません。
こういう話になると、未来を不安に思う人が多いようです。
しかし、悲観することはありません。
今まで人が「やらなければならなかった」仕事を、機械に任せることができるようになってきたわけです。
手が空いた分、好きなことをしましょう。
もし、「機械にできない価値を出す」ことに不安を覚えているのであれば、それこそ好きなことをするべきです。
機械的にやれることは全て機械でやれてしまいます。
人にしかできないこと、それを極めていこうとするモチベーションはその人が好きなことをやらなければ生まれてきません。
クリエイティブなことというのは本来だれにでもできることです。
今まで定型的にやるべきことをやるということに集中してきたせいで難しく感じているだけです。
自分の中の創造性を蘇らせるためにも、自分のすきなこと、すきなものを大切にして育てていきましょう。